名古屋地方裁判所 昭和55年(ワ)1359号 判決
原告(反訴被告) 甲野太郎
右訴訟代理人弁護士 岡本弘
同 矢田政弘
被告(反訴原告) 乙山一郎
右訴訟代理人弁護士 小澤純二
主文
一 被告(反訴原告)は原告(反訴被告)に対し、金五万四、六〇〇円及びこれに対する昭和五五年四月二三日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告(反訴被告)のその余の本訴請求並びに被告(反訴原告)の反訴請求をいずれも棄却する。
三 訴訟費用は、本訴について生じた部分はこれを六分し、その一を被告(反訴原告)の、その余を原告(反訴被告)の負担とし、反訴について生じた部分は被告(反訴原告)の負担とする。
四 この判決の一項は仮に執行することができる。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 原告(反訴被告)
1 被告(反訴原告)は、原告(反訴被告)に対し、金三〇万四、六〇〇円及びこれに対する昭和五五年四月二三日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。
2 被告(反訴原告)の請求を棄却する。
3 訴訟費用は、本訴反訴を通じて被告(反訴原告)の負担とする。
4 仮執行宣言
二 被告(反訴原告)
1 原告(反訴被告)は、被告(反訴原告)に対し、金三五万円及びこれに対する昭和五五年四月二四日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。
2 原告(反訴被告)の請求を棄却する。
3 訴訟費用は、本件反訴を通じて原告(反訴被告)の負担とする。
4 仮執行宣言
第二当事者の主張
一 本訴請求の原因
1 被告(反訴原告、以下単に被告という)は、昭和五五年四月二三日午前七時三〇分すぎころ、名鉄新名古屋駅に停車中の常滑行準急電車(以下本件電車ともいう)内において、原告(反訴被告、以下単に原告という)の前に立ち塞がり、原告が下車するために前へ進もうとするのを妨害し、その間をすり抜けようとした原告に対し、右手拳でその左顔面を力まかせに殴打した。
2 被告の右行為により、原告の眼鏡が飛び、その左側テンプル(つる)が折損し、その修理費に金四、六〇〇円を要し、また、原告は顔面に激痛を感じ二日間疼痛があり、この精神的苦痛は金銭に見積ると金三〇万円を下らないものである。
よって、原告は、被告に対し、不法行為による損害賠償として、金三〇万四、六〇〇円及びこれに対する不法行為の日である昭和五五年四月二三日から完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。
二 本訴請求の原因に対する認否
全部否認する。
原告が、先に被告の胸元をつかみ押し倒しにかかったので、被告は、これを防ぐためやむをえず、原告の手を右平手の背面部分で振り払ったが、このとき、右手が原告に当ったものである。
三 反訴請求の原因
1 原告は、昭和五五年四月二三日午前七時三〇分すぎころ、新名古屋駅に停車中の本件電車内において、発車間際になって急に「下車するからどけ」と言って立ち上がり、被告が「下車するのであれば早く意思表示を」と言ったところ、いきなり被告を足蹴にし、更に、その胸元をつかみ、進行方向左側の空席部にあお向けに押し倒し、被告の上に馬乗りになった。
2 原告の右行為により、被告は左手背部挫創兼挫傷の傷害を受け、一週間の通院治療を受けた。右精神的苦痛を金銭に見積ると金三五万円を下らないものである。
よって、被告は、原告に対し、不法行為による損害賠償として、金三五万円及びこれに対する不法行為の以後の日である昭和五五年四月二四日から完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。
四 反訴請求の原因に対する認否
1 反訴請求原因1の事実は否認する。
2 同2の事実は不知。
五 反訴の抗弁
被告が、先に原告の顔面を殴打したので、原告は、被告が続いて殴打するのを防ぐためやむをえず、被告の胸元をつかんで進行方行左側の座席に被告を抑えつけたのであり、原告の行為は正当防衛である。
六 反訴の抗弁に対する認否
否認する。
第三証拠《省略》
理由
第一 本件の経過
本件は朝の通勤電車内で起った事件であり、その経過は次のとおりである。
一 名鉄新一宮駅での状況
《証拠省略》を総合すれば次の事実が認められる。
1 原告(昭和二二年生)は岐阜から新名古屋駅まで名鉄電車で通勤している会社員であり、被告(大正一五年生)は一宮から金山橋駅まで名鉄電車で通勤している会社員である。
2 昭和五五年四月二三日朝、名鉄新一宮駅において、同駅午前七時二八分始発常滑行準急電車が到着した際、列の先頭に並んでいた被告が前から四輛目の車輛最前列(進行方向)の右側座席の通路側座席に坐り、その窓側の席を後から来ることになっている同僚の訴外丙川春夫(大正一一年生)のために確保していたところ、列の四―五列目に並んでいた原告が乗車し、他に空席が見当らなかったことから、被告の隣の空席に坐ろうとして、被告に「この席は空いているか」と尋ねたのに対し、「この席は連れのために取ってある席だ」との返答があったが、原告はそれにかまわず右空席に坐った。そのためそこで少し口論となった。
3 そのうちに丙川が乗車してきて、被告のそばにきた際、被告が同人に対し「今日は席を取られた」と言ったので、原告は被告に対し「まだそんな馬鹿なことを言っているのか」と文句をつけたところ、被告から「名古屋で話をつけたる」とすごまれた。その後本件電車が新名古屋駅に到着するまで何事もなく経過した。
以上の事実が認められ(る。)《証拠判断省略》
証人丙川及び被告本人は、新一宮駅での状況につき、列の先頭に被告が、そのすぐ後に丙川が並び、順序よく乗車しようとしていたところに原告が割り込んできて強引に被告の隣の席に坐った旨供述しているが、少々の割り込み乗車があったとしても、列の先頭と二列目に並んでいた者が始発電車の座席を確保できないとは通常考えられないこと、被告のすぐ後に丙川が並んでいたのなら、乗車後も被告の傍にすぐ丙川が来るはずであり、被告と原告との前記のようなやり取り(このことは被告本人も供述している)がなされる余裕はなかったと思料されることなどから、措信できない。
新一宮駅での前記のような状況から、原告、被告間に敵対感情が生じ、特に、被告は、朝の通勤電車の中で仲間のために席を確保しておくといったいわば非常識な行動を若い原告からとがめられたことから、原告をいまいましく思う気持を抱いたことが推認できる。
二 新名古屋駅での状況
《証拠省略》を総合すれば次の事実が認められる。
1 本件電車が新名古屋駅に到着したので、原告が降車すべく席から立ち上がり、通路に向おうとしたところ、被告が足を片側に寄せるなどして原告の進路を開けるような所為をとらず、坐ったままの姿勢でいたため、原告はやむなく被告の足をまたいで通路に出た。ところが、丙川が原告の前に立ちはだかって原告の進路を妨害するような姿勢をとっていたため、原告はその横を通り抜けようとしたが、その際、被告が席から立ち上がって原告の前にまわり込み、いきなり右手拳で原告の左顔面を一回殴打した。そのため原告の眼鏡がふっ飛び、左側のテンプル(つる)が破損した。
2 原告は、前に立ちはだかる被告や丙川から更に攻撃をしかけられるのではないかと感じ、突嗟に被告の胸元を掴んでそのまま反対側の座席に被告を押し倒したが、被告から手を払われるなどして手を離した。
3 原告は警察官に事情を聴いてもらうため、被告を促して一緒に降車し、駅員詰所へ行き、そこで中村警察署の警察官から事情聴取を受けた。
以上の事実が認められ(る。)《証拠判断省略》
被告本人は、自分は原告を殴っておらず、原告から足を蹴られ、立ち上がったところをいきなり胸元を掴まれて押し倒された旨供述し、証人丙川もほぼそれに沿う供述をしているが、被告の供述に前後一貫しないところが多く、証人丙川の供述も同証人は被告の同僚であり、強い関心を持って目撃しているはずであるのに供述にあいまいな点が多く、いずれも措信できない。
新一宮駅での経過から被告の方に攻撃を加える強い動機が存していたこと、原告の眼鏡のつるが破損したのはそこに強い衝撃が加わったことを示唆していること、原告は新名古屋駅で降車しようとしていたのであり、ことさらに被告に先に攻撃を加えるだけの動機が不十分であり、先に攻撃を加えるにしても殴打したり突き飛ばしたりする方法をとるのが自然であり、被告からの攻撃がないのにいきなり被告を押し倒すというのは不自然であること、その他本件後の状況(前記各証拠により、被告が本件の示談金として金一万円を原告に送金し、原告がそれを送り返していることが認められること等)などの事情からも、前記認定のとおり被告が先に原告を殴打したと認めるのが相当である。
第二 以上の認定事実をもとに、本訴、反訴の請求の当否につき検討する。
一 まず、本訴請求につき検討するに、被告が原告を殴打したことは明らかに不法行為であり、被告はそれにより蒙った原告の損害につき賠償義務がある。
《証拠省略》によれば、被告の暴行により原告の眼鏡のつるが破損し、そのこともあってその日の仕事につけなかったこと、その修理に四、六〇〇円を要したこと、原告は約二日間顔面に疼痛を感じていたことがそれぞれ認められる。
朝の通勤電車の中で、言い方にやや強い口調があったにせよ、何ら非の認められない原告が、いきなり被告から顔面を殴打されて眼鏡を壊され、痛みを覚え、その日一日仕事を休まざるを得なかったことなどの事情を考慮すると、被告は原告に対し、原告の肉体的、精神的苦痛を慰藉するため、金五万円の賠償義務があるものと認めるのが相当である。
以上により、原告の本訴請求は被告に対し眼鏡の修理費四、六〇〇円及び慰藉料五万円並びにこれらに対する不法行為の日である昭和五五年四月二三日から完済まで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で理由があるからこれを認容し、その余を棄却することとする。
二 次に反訴請求について検討するに、前記認定のとおり、原告が本件電車内で被告の胸元を掴み、座席に押し倒したことは認められるが、原告の右行為は被告から先に殴打され、被告や丙川から更に攻撃を加えられるのではないかと感じてやむを得ずなした正当防衛行為であると認められるから、損害についての被告の主張を判断するまでもなく、被告の反訴請求は理由がないからこれを棄却することとする。
第三 よって、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九九二条を、仮執行宣言につき同法一九六条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 森本翅充)